ショート・ショート・バイオグラフィ:短い伝記

国家の建設

豪族たちの対立によって、大和朝廷の統治力が揺らいだときに登場したのが聖徳太子だった。
聖徳太子は、天皇を中心とした国家を建設すべく、冠位十二階の制や十七条憲法を導入した。
同時に、大陸の進んだ文化・知識を吸収するために遣隋使を派遣した。


このような改革は、聖徳太子の死によって頓挫し、替わって蘇我氏が、台頭し独裁専制政治を進めていった。
蘇我氏の権勢に危機感を持った、中大兄皇子(後の天智天皇)は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らとともにクーデターを決行し、蘇我氏を滅亡させる。
その後、中大兄皇子は、公地公民や班田収受の法などの改革を進めていく。
クーデターに始まる、これら一連の行政改革プログラムを大化の改新という。


天智天皇の死後、政権が分裂し、皇位を巡って壬申の乱が勃発した。
この乱で大海人の皇子(天智天皇の弟)が、大友の皇子(天智天皇の子)を破り、天武天皇として即位した。


このようなプロセスを経て天皇を頂点とした中央集権国家が確立された。
このような政治機構を律令制という。
律は刑法、令は行政法に相当する。


710年には、都が奈良の平城京に移転した。
このころ、日本最初の貨幣・和同開珎が誕生する。


律令制の確立は、朝廷の財政基盤を強固なものにしたが、それは一時的なものだった。
律令制のもとでは、農民に重い負担が課せられたため、この負担から逃れようと、多くの農民が逃亡した。
このため、律令制の根幹が破綻し、これを挽回するために、794年に平安京への遷都が実施された。


律令制は、公地公民のため土地の私有は認められていなかったが、私有を認めざるを得ない状況に至った。
このため、貴族や寺社が多くの土地を持ち、ますます力をつけていった。
このような私有地を荘園という。


特に力をつけた藤原氏は、摂政・関白の地位を一族で独占し、摂関政治を展開した。






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