ショート・ショート・バイオグラフィ:短い伝記

武士出現

貴族による摂関政治が、長く続いたが、11世紀には天皇家が再び勢力を盛り返してきた。
白河上皇が院政を開始すると、貴族と天皇家のバランスは拮抗するようになり、両者間の争いが頻発するようになる。
この争いに活用されたのが、武士団であった。


武士団には、有力なグループが二つあった。源氏と平家である。
平家は桓武天皇の子孫を祖とし、源氏は清和天皇の子孫を祖としている。
武士団は当初、単なる武装勢力として戦乱に投入されていたのみであったが、保元の乱の結果、源氏、平家それぞれが朝廷の要職についた。


直後の平治の乱では、平家が源氏を一掃して政治の実権を握り、棟梁の平清盛が太政大臣に就任した。


平治の乱で壊滅状態になった源氏ではあったが、平清盛の没後は、生き残った源頼朝が中心となって勢力を挽回した。
一方で、清盛なき平家は、衰退の一途をたどり、木曾義仲によって京から駆逐される。
1185年、平家は壇ノ浦の合戦で滅亡するが、それは平清盛が太政大臣就任からわずか18年後のことであった。


源頼朝は、鎌倉に幕府を開くが、源氏の血統は3代で途絶え、以後は家臣であった北条氏が執権として幕政にあたった。
鎌倉幕府成立と同時に、全国支配が完成したわけではない。
依然として、京の朝廷が権力を維持していたため、当時の日本の東は幕府が、西は朝廷によって統治されるとう二元構造になっていた。


鎌倉幕府は蒙古襲来の直後から、弱体化が進み、後醍醐天皇の倒幕運動によって滅亡する。(1333年)
滅亡直後は、後醍醐天皇による直接政治(建武の親政)がなされたが、武士団の不満を買い、わずか2年程度で足利尊氏によって、追放される。


後醍醐天皇は、吉野に逃れ、そこで別の政権を立てた。
これが南朝である。
これに対し、京の朝廷を北朝という。
足利尊氏は北朝によって征夷大将軍に任命され、室町幕府が成立する。


二つの朝廷が並存する期間を南北朝時代という。この間、それぞれの朝廷を支持する勢力が互いに激しく争う戦乱の時代であった。
三代将軍足利義満によって、南朝が北朝に吸収合併され南北朝時代は終焉する。


諸国を統治する守護大名が力を蓄えるにつれ、室町幕府の権力・支配力は徐々に低下する。
将軍家の跡目争いに、有力守護の細川氏、山名氏が介入したことから、応仁の乱(1467年)が勃発、諸国を巻き込んでの戦乱「戦国時代」へと発展する。




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