ショート・ショート・バイオグラフィ:短い伝記

徳川幕府

関が原の合戦(1600年)後、征夷大将軍に任命された徳川家康は、江戸に幕府を開いた。
幕府は将軍による強力な独裁体制をしき、強権によって全国を統制した。
全国は藩とよばれるブロックに分割され、各藩はそれぞれ大名によって統治された。


各藩の行政は、それぞれの領主である大名に任されたが、徳川幕府は、各大名が領地経営によって力を蓄えることを極度に恐れた。
徳川幕府は、参勤交代を義務付けることによって、各大名に多大な出費を強いた。


島原の乱(1637年)によって、キリスト教が脅威であることを認識した幕府は、封建体制が揺らぐことを防止するために鎖国政策(1641年)を実施した。
例外としてオランダと清(中国)のみが長崎の出島での貿易が許された。


財政基盤を安定させるために、士農工商という身分制度が徹底された。
当初はコメ中心の経済であったが、江戸時代中期以降に貨幣経済が発達し、両替商といった金融サービスが登場した。
その一方で、幕府や各藩は財政難に陥った。
このため、江戸時代の後期には、「士」よりも「商」が豊かになるという逆転現象が発生した。


幕府は財政難を克服するため、計3回の改革を実行する。
享保の改革(1716年)、寛政の改革(1787年)、天保の改革(1841年)であるが、回を追うごとに効果は少なくなり、財政難を克服するどころか、幕府は弱体化の一途をたどった。


ペリーが来航(1853年)すると、社会不安が一挙に噴出し、時代は動乱の幕末へと突入する。
徳川慶喜による大政奉還は、ペリー来航からわずか14年後のことであった。


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