ショート・ショート・バイオグラフィ:短い伝記

大黒屋光太夫

だいこくやこうだゆう

大黒屋光太夫は江戸時代の船乗りです。ロシアに漂流しましたが、10後に奇跡的に生還しました。

大黒屋光太夫は1751年(宝暦元年)に伊勢国で代々船宿を営む家生まれました。
成長してからは廻船問屋に雇われ、船頭になりました。

運命の航海は1782年(天明2年)12月、伊勢国の白子の浦からから始まります。
光太夫を含む17名が乗った神昌丸は江戸へ向け出港しますが、駿河沖付近で暴風にあい神昌丸が操縦不能になって漂流し、7ヶ月後、アムチトカ島へ漂着します。

この間、17名のうち1名が死亡しますが16名が生き残りアムチトカ島へ上陸しました。
その4年後、アムチトカ島に交易のため訪れていたロシア人とともにアムチトカ島を去り、イルクーツクに滞在しました。

イルクーツクで大黒屋光太夫一行は学者のキリル・ラックスマンと出会います。
キリル・ラックスマンは日本への帰国を熱望する大黒屋光太夫の気持ちを受け入れ、一行をサンクトペテルブルクへ連れて行きました。皇帝エカチェリーナ2世に拝謁するためです。

エカチェリーナ2世と拝謁は1791年に実現し、大黒屋光太夫は帰国の希望を聞き届けてもらえました。
当時の日本は鎖国でした。日本との貿易を目指すロシアは漂流民を返還する目的で日本に開国をせまろうとしたのです。

キリルの次男アダム・ラックスマンが使節として日本に派遣され、光太夫らは根室に上陸しました。
神昌丸の漂流から10年後のことです。
帰国後の大黒屋光太夫は、11代将軍徳川家斉や老中の松平定信によばれて、ロシアでの体験や海外の情勢を報告しました。

光太夫は江戸で住宅を与えられ、豊富な海外体験を語ることによって蘭学の発展に貢献しました。
1828年(文政11年)、大黒屋光太夫は78歳で、波瀾の生涯を終えました。






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