ショート・ショート・バイオグラフィ:短い伝記

信長の鉄砲隊は3段撃ちをやっていない

織田信長は鉄砲を活用した武将としても知られている。
長篠の合戦では、3000丁の鉄砲を投入し、武田勝頼の騎馬軍団を壊滅させたのだ。
このとき信長が用いた戦術が「3段撃ち」である。


当時の鉄砲は、連続で射撃することができなかった。
発砲後、筒内の清掃、火薬装填、弾丸装填、着火を経て、2発目の発砲となる。
このサイクルには30秒を必要とする。
つまり、30秒間に1発しか撃てないのだ。


織田信長が大量の鉄砲を所有していることを、武田勝頼は合戦前にキャッチしていた。
勝頼は「30秒間に1発」という鉄砲の弱点を見込んで、この間に騎馬軍団で襲撃しようと考えたのだ。


これに対し信長は、1000名で一組の鉄砲隊を全3グループ編成し、発砲のタイミングを、3つのグループでシフトさせたのだ。 こうすると「10秒間に1発」の間隔での発砲が可能になる。
その結果、襲撃されることなく騎馬軍団に決定的なダメージを与えることができたのだ。


これが後世に伝わった、長篠の合戦の全体像だ。
これによって「開明的な信長VS暗愚な勝頼」「戦術史の転換点」といったイメージが出来上がったのである。


『信長公記』という歴史書がある。
これは、信長に側近として仕えた太田牛一が記録したもので、織田信長に関し史実としての信憑性が非常に高いものだ。
戦国時代研究の史料としては第一級のものでもある。
この『信長公記』で長篠の合戦に関する記事を確認すると、大量の鉄砲を活用した描写はあっても、「3段撃ち」の記述がまったくない。
これほど成果のあった「3段撃ち」なら、描写の細かい信長公記に記載があっていいのだが、まったくないのだ。
(信長公記のサイト の「巻八(天正三年)」を見ると「3段撃ち」の記述がないことをご自身で確認できます)


江戸時代に、小瀬甫庵が『信長公記』をベースに『信長記』というフィクションを著した。
『信長記』の中で初めて「3段撃ち」が登場する。
「3段撃ち」は小瀬甫庵の脚色なのだ。


『信長記』は、記録ではなく大衆娯楽を目的としており、民衆に広く受け入れられたようだ。
「3段撃ち」はその後に書かれた歴史小説にも採用され、事実であるかのように定着していったのだ。
明治時代に作成された参謀本部の戦術テキストのなかにも、「3段撃ち」が登場しているものがある。


では、「3段撃ち」なくして、どうして信長は勝ったのか。
鉄砲の数量も元々多かったので、それだけで効果があったことと、勝頼が大量の鉄砲がもたらす危機を正しく認識していなかったからだろう。
なお、勝頼方に「騎馬軍団」はもともと存在していなかったとする学説もある。






スポンサードリンク





スポンサードリンク