ショート・ショート・バイオグラフィ:短い伝記

鉄砲は種子島以前に伝来していた

天文12(1543)年、ポルトガル人が種子島に漂着した。
彼らは火縄銃を携えており、引見した領主・種子島時尭が金と引き換えに2丁を譲り受けた。
これが学校で学んだ「鉄砲伝来」の概略だ。


年号は「以後よさ(1543)ない、鉄砲伝来」と記憶する。
恐らく多くの日本人は、種子島と聞けば、宇宙センターよりも鉄砲伝来を思い起こすだろう。


1543年伝来の根拠は鉄記(てっぽうき:「」ではない)という歴史書で裏付けられている。
鉄炮記の記述は詳細で、漂着したのが中国船であることや、漂着の年月日、同乗していたポルトガル人、中国人の氏名までが記載されているという。
「鉄炮記」以外にコレといった史料もないことから、同書が「1543年:鉄砲伝来」の出典となっている。


ところがこの「鉄炮記」は、種子島時尭の孫・久時が、種子島氏をヨイショする意図で編纂させ、慶長11(1606年)年に完成したものだ。
伝来から60年以上たってから当時を思い出して書いた文献であり、かつ身内のヨイショが目的であれば、その内容の精度にも疑問がわく。


一方で、種子島への伝来は、ヨーロッパ側の史料にも記録されている。
ところが伝来年は「1542年」や「1545年」など記載は様々で、鉄砲伝来がいつなのかは特定できていないのだ。
だが、鉄砲伝来の年が数年ブレたところで、「時代の大きな流れを掴む」といったことには影響しない。
そんなことは本質ではないのだ。


問題なのは「どこから伝来したのか」である。
鉄砲伝来と聞けば、その鉄砲は「ヨーロッパから やって来た」とイメージする。
ところが伝来した鉄砲は、東南アジアで流通していた形式であり、ヨーロッパのものとは異なるのだ。


当時、中国沿岸や東南アジアの海域に、密貿易を行う海賊が勢力をのばしていた。
これを倭寇という。
倭寇は、商取引のために、東南アジアに進出していたポルトガル人と頻繁に接触していたようだ。


種子島に漂着した中国船は倭寇の密貿易船だった。
だから、ポルトガル人も火縄銃も載せていたにすぎない。
鉄砲伝来は「ポルトガル人によってヨーロッパから」ではなく「倭寇によって東南アジアから」が妥当な解釈なのだ。


解釈の誤りは、もう一つある。
「鉄砲が初めて日本に持ち込まれたのが種子島」という解釈がそれだ。
近年では、種子島以前にすでに、倭寇によって国内に鉄砲が持ち込まれていたとする学説がほぼ主流なのだ。
(海外の文献を複数読みあわせると、こういう説になるらしい)


ときは戦国時代、そこが巨大な火縄銃マーケットであることくらい倭寇には分かっていたのだ。
行き交う密貿易船のうちの一隻が、たまたま種子島に漂着し、たまたま開明的な領主が買い上げた。


その後、鉄砲のクローンが種子島で製造され、爆発的なスピードで全国の戦国大名へ普及していく。
種子島氏が歴史に大きく貢献したことに疑いはないが、決して日本初上陸ではなかったのだ。


鉄砲は密貿易でやってきた。
だから「いつ・だれが・どこで」を特定するのは、今後もまず無理だろう。







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